ラジオ番組「チェンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」 

北前船プロジェクト活動内容のご報告

報告日付報告内容
2022-02-16

琵琶湖の舟運

2020年9月18日放送 「チェンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」
ゲスト:長浜城博物館の前館長、現在長浜市 学芸専門監 太田浩司氏

太田さんは、信長が琵琶湖の湖岸に築城した意味、琵琶湖の舟運をわかりやすく紐解いています。 信長は、岐阜城から琵琶湖の湖岸に安土城を築城し本拠地にし、琵琶湖北の秀吉の長浜城、西の織田信澄の大溝城(高島市)そして南の光秀の坂本城(大津市)を船で繋ぎ、軍事と経済の両面で日本制覇を考えていたと話す。

  これを太田さんは、琵琶湖を運河としてとらえ安土城を本店に、秀吉、光秀、甥の信澄の重要人物を支店(城)に配置した戦略をわかりやすく説明している。 しかし、明智光秀の本能寺の変で統一は頓挫。この琵琶湖で光秀を大河ドラマでどう描くか楽しみだと語っている。

 舟運については、琵琶湖最北部の塩津港の発掘調査で、神社等の遺構や生活用品が沢山発見された背景を説明している。 塩津は、日本海に一番近かったのが掲載の地図でもわかる。 古来より北國や大陸との海の交易の琵琶湖の玄関で大変な賑わいだった説明もある。 琵琶湖の南の堅田は湖の幅が一番狭く、塩津などから運ばれた品々はここを通り京に運ばれていた。 ここで関をつくり、関銭を徴収し莫大な財を得ていた話もありました。
 琵琶湖は水深が浅い為、独自の船が発達し底が丸いかたちで「丸子船」とよばれ北前船の「弁財船」との違いの紹介もある。 この他、えり漁と鵜飼漁にも触れ、えり漁は、魚が障害物にぶつかるとそれに沿って泳ぐ習性を利用した平安時代からの琵琶湖独特の漁法、日本で唯一湖の島に人が住む沖島の話があった。 

 太田さんは、数多くの出版をされている。 写真の『覇王 信長の海琵琶湖』4年にわたり連載された『湖の城・舟・湊 琵琶湖が創った近江の歴史』そして 『近世への扉を開いた羽柴秀吉 長浜城主としての偉業を読む』など多数ある。 信長の琵琶湖戦略から100年、北前船の時代になり琵琶湖を経由しなくなり、塩津や堅田がどうなったか。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-16

藩長連合成立の陰の舞台「御手洗港」

2020年8月28日放送 「チェンバロリスト明楽みゆきの浪漫紀行」
ゲスト:御手洗豊町観光協会ガイド 田中一士氏

ゲストは、呉市教育委員会の紹介で御手洗豊町観光協会ガイドの田中一士さん。 御手洗には、しまなみ海道、とびしま海道の2つのルートがある。御手洗は、2018 年北前船寄港地として日本遺産に認定されている。田中さんは、北前船が活躍する前の1660年代から語り、この頃から広島藩が御手洗港を重視していた歴史も紹介している。

 広島藩が御手洗港整備に力を入れた事で、参勤交代で九州各藩の大名達が立寄る港になる。 北前船が活躍する時代になると、沿岸を進む地乗りから、沖合を進む沖乗りが主流になり、沖にある御手洗港が有利になっていく。(河村瑞賢の西廻り航路は沖乗りが基本だった) 御手洗港が、北西に向いていた事が風待ち潮待ち港として多くの廻船が寄港するようになる。 広島藩は、その後も大がかりな石積みや雁木を作り海岸線を埋め立て港の拡大と保護をしている。

 港の繁栄が残る町並みは、1994年国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、2019年日本遺産構成文化財に登録された。 江戸から明治、大正、昭和の建物には、白壁、立派な瓦、千本格子の家並みが残り、江戸時代からの下水道も保全され、町全体の指定は全国唯一と説明がある。 この一角には、広島藩の御用商人(大坂の鴻池善右衛門)が寄進した「住吉神社」がある。(日本遺産構成文化財) 創業150年の歴史を誇る時計店は、世界にその名を知られ、高級時計を求める人か往来する豊かな港だったのがわかる。

 広島藩は、藩札を御手洗で流通させ、尾道、宮島でも使えた為、御手洗は大商港として発展する。 御手洗に特産品はなく北国から仕入れた米の流通で稼いでいた。 広島藩公認の遊郭の1軒は現存し、この茶屋だけで遊女を100人以上かかえ、家屋の資材に薩摩藩の屋久杉を使っていた事も紹介している。 幕末になると 薩摩藩との密貿易で富や文化が集積した広島藩は、長州藩とも倒幕の密約を交わし江戸幕府を揺さぶる事になる。 その中心地御手洗港は、藩長連合成立の陰の舞台になっていた。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-16

江戸時代に発達した数学「和算」

2020年8月14日放送 「チェンバロリスト明楽みゆきの浪漫紀行」
ゲスト:射水市新湊博物館学芸員 松山充宏氏

赤穂藩浅野家の家臣村松茂清(1608〜1695)が、日本で初めて円周率を7桁まで算出、また算額絵馬と北前船について去年12月和算研究家梶川雄二さんがこの放送で紹介している。今回は、江戸時代後期に富山・石川両県の正確な地図を作った富山県射水の和算家で、測量家でもあった石黒信由(1760〜1836)について、学芸員の松山さんに紹介して頂きました。

 和算とは江戸時代に発達した数学のこと。 信由は和算を高度に発展させた関孝和(1642〜1708)の流れを汲む弟子にあたります。 江戸時代後期、和算を通じた交流は各地に広がっていて、信由も陸奥国一関(岩手県一関市)の和算家と算題をやり取りして交流を持った記録が残されています。  算題とは和算の問題のことで、算題を書いた大きな額を神社・寺院へ掲げて自らの知識の高さを示す算額奉納が、江戸時代盛んに行われました。

 算額絵馬は、映画『天地明察』でも描かれ、この物語では、関孝和が算額で和算の難しい出題をしています。 番組では、信由がまとめた航海術書『算法 渡海標的』が、1836年に京都で出版された事も紹介されました。 この書物は、高度な和算を使い、船の上から星を測る方法が示され、安全な航海に必要な技術をまとめた書籍です。 漂流して帰港出来なくなる事があるので、船の位置を知るために、北極星の高度を測る方法を示したものであったため、 船乗りがこぞって買っていたようです。
 この他、平安時代から戦国時代までに射水に荘園を持っていた京都下鴨神社で、 昆布が神へのお供えとして捧げられている話も紹介され、富山の昆布の深さを知りました。 信由以下4代が残した測量・和算・天文暦学関係資料6,392点はすべて国の重要文化財に指定され、同博物館で展示紹介しています。 館内では、江戸時代の測量体験ほか様々な企画が用意され、大人から子供まで楽しめるそうです。

射水市新湊博物館 HP: https://www.city.imizu.toyama.jp/museum/

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-16

福山 港町として栄えた「鞆の浦」

2020年7月24日放送 「チェンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」
ゲスト:福山市の元学芸員 園尾裕氏

ゲストの園尾裕さんは、福山市の元学芸員で文化財に関わり退官後は、市民大学等で講師をされている方。放送では、日本100名城の福山城と、福山上水道の関係を詳しく紹介している。福山城は、1615年一国一城令の後に築城が始まり1622年に完成。この年代の築城は珍しくその背景に、西に浅野家、東に岡山藩の外様大名を監視をする役目があった。この為、初代藩主は徳川家と血縁がある譜代大名水野勝成。   

 福山城は、芦田川河口の三角州に造られ、井戸は塩気を含んでいたので、城完成から勝成は上水道の整備に力を注いでいる。 この上水道は、神田、赤穂、近江八幡、大分中津に次ぐ5番目に造られた。 4年前福山城に行った時は、中の博物館に上水道の遺構が展示されていた。 この福山上水道は、「日本三大上水道」として、赤穂水道、神田上水と共に『全国疎水名鑑』等で紹介されている。  

 後半では、港町として栄え日本遺産のストーリーがある「鞆の浦」を紹介します。「鞆の浦」は、古来より多くの歴史上の人物が立ち寄った港。 江戸期に入ると、福山城の築城から藩港として栄え、当時の雁木等がそのまま残り、港の景観は日本遺産に2018 年に認定されている。 この前年、朝鮮通信使12回の内11回が鞆に寄っていた事から世界記憶遺産の町として認定された。この年、国の重要伝統的建造物群保存地区(8、6ヘクタール)に選定された景観を語っている。

園尾さんは、2009年札幌の開拓記念館に出張で行き、鞆から運ばれた江戸期の酢の徳利を借りている。 鞆にはニシン粕等が運ばれ、鞆からは、タバコ、米、古着、井草、綿、酢、砂糖、塩等が北前船で運ばれていた。 また錨、船釘等の鞆には、鍛冶の歴史も今に引き継がれている例も紹介している。 当時7つの酒蔵があり、鞆の浦の代表的な保命酒は350年程の歴史がある。 焼酎で作られ16種類の薬草が使われ、鞆では今も4件の店が製造し、どのお店のHPにも、鞆の港、町並みとその歴史を紹介している。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司


2022-02-16

薩摩の廻船「買い積み商法」

2022-02-16

長野県小諸市 「小室節」の起源 モンゴルとの繋がり

2020年7月3日放送 「チェンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」
ゲスト:長野県小諸市「小室節保存会」中山喜重会長

前段では、日本100名城の小諸城は、武田信玄の家臣山本勘助が築城した日本唯一の穴城、徳川秀忠のエピソード、そして今は懐古園と呼ばれ桜の名所、島崎藤村も滞在し『破戒』を執筆等を紹介している。 後半では、 江差追分けは、小諸の馬子唄がルーツと江差追分会館で語られているとインタビューが始まった。   

 中山会長は小室節の起源について、文献はないがモンゴルからだと、奈良時代からあった日本の官の牧場を指摘。 当時、全国には32の官牧があり、16がこの地にあり御牧ヶ原が最大。 官牧でモンゴルからの渡来人が馬の飼育に携わり、望郷の念に駆られて歌ったのが原型ではないかと語っている。 モンゴルの古謡『駿馬の曲』と小室節のメロディーが酷似していると話す中山会長は、 長野県モンゴル親善協会会長でもあり、モンゴルから招かれている。  生活や仕事から自然に生まれた民謡の起源が、遠いモンゴルの地と海を越えて唄の調べが共有されていた事、そして小諸から江差に北前船で伝播したのは、自然な流れと感じた。  更に、江戸時代には松尾芭蕉や小林一茶が小室節の句を詠んでいると紹介している。 また、祇園祭で健速(たけはや)神社より出る神輿を先導したのが、伝統の小室節でちんじの唄になっていた。最後に小室馬子唄をyoutubeで紹介します。https://search.yahoo.co.jp/video/search…

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-16

富山の売薬 

2020年6月26日放送 「チェンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」
ゲスト:富山市 富山市郷土博物館 主幹学芸員館長 坂森幹浩氏

富山県では、富山市と高岡市が北前船で日本遺産に認定されている事からその地域の文化の違いについてインタビューが始まる。江戸期、富山県と石川県は、越中、加賀、能登の3つの国に分かれていたが、いずれも前田家の領地でそれぞれの地で違う文化が根付いていたと具体的に応えてる。富山市郷土博物館は、天守閣を模した3重4階建ての建物で、昭和29年富山産業大博覧会の記念建築物として富山城址公園内に 建設された。

 富山城は、続日本100名城に認定されている。 常設展示は富山城の歴史を紹介しており、現在開催中の企画展(2020年7月12日まで)では、富山藩御用絵師の木村立獄を紹介している。 HPには、平成9年から毎年10回開催した企画展が掲載されている。平成11年12月の「博物館だより」第36号のテーマは「忠臣蔵」で、大石内蔵助と富山藩士との繋がりを紹介している。 赤穂藩大石家と富山藩士の奥村家の家系図まで掲載し、梅堂国政が手がけた討ち入りの場面を描いた浮世絵版画 の掲載もある。 詳細は下記のHPでご覧ください。(富山市郷土博物館HP: https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/index.html)

  大石家と富山藩の関係は、2代藩主前田正甫(1649~1706)の元禄時代。富山藩第2代藩主・前田正甫は、腹痛の薬の「反魂丹」を全国に広め、豊かな藩にしている。「反魂丹」が、元禄の時代(1700年頃)から売薬の販路を広げる原点になった。 この博物館では薬の生産から、原材料や包装等への波及をHPで紹介している。 (こちらも一緒にご覧ください。「薬種商の館 金岡邸」HP: https://www.bunka-toyama.jp/kanaoka/pill/index.html)

 主幹学芸員でもある坂森氏は、ペリーが来航する頃には、 松前から鹿児島まで約2000人以上(20組)が活躍していたとインタビュー最初で応えている。   この20組の中に薩摩組があり仲間組として強い団結心があった。 その売薬の積荷は、1000箱以上で富山の北前船がこれに貢献していた。 幕末はどの藩も財政難に陥り多くの藩は差し止めをし、自藩の産業の保護から今で云う保護貿易に話が及んでいる。 この中で、中国と昆布交易をしていた薩摩の利益と 、中国の薬種を持ち帰り富山の売薬と関連の「ものづくり」にも貢献している。  得意先には進物として、浮世絵の版画を渡し心を繋いでいた。 売薬版画には、「忠臣蔵四段」と「忠臣蔵七段」もあり詳細はHPに掲載されている。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-15

八戸 東廻り航路寄港地

2020年4月24日放送 「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀」
ゲスト:八戸市教育委員会 学芸員 柏井容子さん

八戸は、太平洋側の青森県東南部に位置し、人口22万余りの市で青森市に次ぐ中核都市で、船や新幹線のアクセスが便利な地。柏井さんは、『街道をゆく』で司馬遼太郎が取材に来られた事も紹介している。

 太平洋の眺望とあわせ代表的な名所12キロある「種差海岸」は、海岸ギリギリに天然の芝生、砂浜、松林、岩場が広がり、東山画伯も描いている。 南端には岩山が現われ遊歩道が整備され大須賀海岸は、「日本渚100選」に選ばれ、鳴き砂の浜としても知られている。この他この海岸にくるウミネコの繁殖地についても紹介している。 

 後半では、初めての東廻り航路の寄港地からのインタビューです。 柏井さんは八戸藩の成り立ち、それ以前の日本100名城の根城(南北朝時代)から紹介している。 港から開けた八戸も八戸城の築城(1627)で、城下町として発展し “数字の町名数” は全国一。それより前、家康が江戸幕府(1603)を開くと米不足になり、天領酒田の米を江戸に運んだのが東廻り航路の始まりで八戸はその寄港地。
 八戸港は、東の鮫湊・中央の白金浜湊・西の河口の三つの湊で形成されていた。 この地の利を活かせたからか、近江商人の岡田弥左衛門(1568~1654)は、1600年頃から1614年松前に拠点を移すまで八戸を拠点に商いをしている。 
 司馬さんの『菜の花の沖3』では1700年頃から、江戸から八戸に航路出来て、まだ農村社会の八戸に古着を運び、八戸の変容を小説で描いている。

 八戸藩と江戸間の輸送が廻船の始まりで、特産品に鰯や南部鉄があるが、米が採れなかった為大豆が最大の特産品。 この大豆は、千葉銚子に運ばれ、醤油の原料になり、行徳塩から次第に良質な赤穂塩が使われるようになる。 瀬戸内海から江戸へは、樽廻船、菱垣廻船があったが、赤穂からは塩廻船で江戸に運ばれていた。 この他、八戸三社大祭(ユネスコの世界文化遺産)は、今年で発祥300年と紹介している。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-15

姫路 日本遺産「銀の馬車道・鉱石の道」

2020年4月17日放送 「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀」
ゲスト:姫路市教育委員会文化財 大谷輝彦課長

姫路市は「銀の馬車道・鉱石の道」で2017年、シリアル型で日本遺産に認定された。これは、明治の近代化で道が整備され、生野の銀を飾磨港まで運んでいた。

 天領の銀が、飾磨港まで運ばれたのは北前船が活躍する以前からで、初代姫路藩主池田輝政は、姫路城築城(1601)と平行し、飾磨港の入江に向島を建設し、船役所・船置場を置き、船手や水主を配置。
 1609年、城の外堀から飾磨港への運河計画は、輝政の死(1613年)で頓挫。姫路藩は、港を重要視し室津港を、飛地として明治まで支配している。

 北前船の日本遺産構成文化財に、越前の右近権左衛門らが明治初期に寄進した牛の石像があり、奈良屋の菩提寺の正法寺の唐戸(1768)とその時の口上書(1767)もある。 豪商奈良屋は、姫路城南の近くで酒田の本間家、新渡戸家とも取引があり、三代目本間光丘は16歳の頃、奈良屋で修行している。 口上書は、先代奈良屋権兵衛の十三回忌に光丘が正法寺に宛てた修繕支援の文書。 
この2つは、2015年新潟県と兵庫県の北前船の企画書籍に掲載され、この時の講演で、奈良屋の古着を、坂越の廻船が酒田の新渡戸家に運んでいたと紹介された。この時代はまだ坂越の廻船は、酒田に赤穂塩を頻繁に運んでいた。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司

2022-02-15

近江八幡 全国で活躍した豪商の屋敷が残る町

2020年4月3日放送 「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀」
ゲスト:近江八幡市総合政策部文化観光課主幹(市史編纂室) 烏野茂治氏

近江八幡市の新町周辺は、白壁の土倉、豪商たちの屋敷が残り国の重要伝統的建造物保存地域。その一角の案内板には、近江商人のふるさとと紹介している。 安土城があった近くの八幡山に、豊臣秀次が1585年新しく城と城下に町を築くと、信長が築いた安土城下の商人、琵琶湖の東の村々の人々が八幡町に移住している。

 現在の「西川ふとん」も、蚊帳等の生活用品の販売の為、1587年この八幡町に本店を移転している。これは、信長が打ち出した楽市楽座の政策を、秀吉が引き継ぎ、交通の要衝だった八幡の城下に人が集まったもの。京都に近く、城の掘割が運河の役割をし琵琶湖から京へと舟でも繋がたっていた事が大きい。現在は、和船で堀巡りができると紹介している。

 八幡商人は、八幡の町に本家を構えながら全国(江戸、東北南部、松前等)にも出店し、近江八幡市には沢山の常夜燈の中に松前屋中がある。 九州、東南アジア(御朱印貿易)でも活躍し、この番組でも先週、蒲生郡日野から(1821年)宮崎の延岡に息子と転住し廻船問屋として『東の横綱』になった例を紹介している。

 琵琶湖の東の近江商人は、大量輸送ができる帆船で流通を発展させ、その「ノコギリ商法」は、後の北前船の「買い積み商法」の原点になっている。 天秤棒をかついだ行商人から豪商へと成長していった話は、この番組で明楽さん自身の先祖の事として紹介している。

 続編となる4月10日放送の2週目は、慶長年間(1596年 – 1615年)から北海道で活躍していた近江商人(八幡商人)を岡田彌惣右衛門と西川傳右衛門の活躍から紹介している。 

 西川傳右衛門は、「西川ふとん」の先祖で1738年の記録では、北海道で帆船を建造し敦賀等で商いをし、その屋敷(国の重要文化財)は資料館として公開されている。 岡田家は、近江八幡では「松前屋」、松前では「恵比須屋」の屋号で活躍。 岡田家も、豊臣秀次が八幡城築城(1586年)を機に八幡城下に進出し、慶長年間に呉服太物等を、八戸を拠点に全国で商いをしている。

 八戸での近江商人の活躍は、『菜の花の沖3』で江戸から東廻り航路(元禄年間1700年前後)で八戸の経済の変化を描いている。 その100年近く前に、すでに八戸を拠点に近江商人が商いをしていたので、これは小説の世界かもしれない。

 岡田家は、1614年松前藩の助力を受け八戸から松前に進出し、蝦夷地に呉服・太物等を販売する「恵比須屋」を松前に支店を開設。 1672年北前船航路が整備されると、「ノコギリ商い」で北海道産物の交易を全国に拡大。 小樽に入るには、明治までは松前藩が認めた者だけと場所請負制度があり、小樽を中心に古平、銭函、美国、岩内の漁場で、鰊で巨利を得ていた。
 松前城にはこの岡田弥三右衛門が、松前での繁栄を後世に伝えるため、松前の絵師・小玉貞良に描かせた松前屏風(レプリカ)が展示されている。これは北前船の構成文化財。
 明治になると第11代目岡田家は、小樽に進出し13代目まで小樽や北海道で、炭礦や農場を開発し経営もしていた。 烏野氏は、近江商人は、自分達の商いだけでなく地域にも貢献し、近江八幡にはその足跡が残っていると語っている。

この番組は、ピナクルズ、トータル運輸、山元醸造、兵庫津樽屋五兵衛の提供で、FM札幌しろいし局が制作し、毎週木曜日から北前船寄港地13箇所で放送されています。  スマホからは「日本ラジオ」をインストール、アイフォンからは「Tune in Radio」で、パソコンからは「各FM局」検索で聴いていただけます。

文:矢竹考司